[PR] スポンサーリンク



ブログ インデックス (きのう・おととい)   さくらぎ広場もご覧ください もうひとつの記録

 

2010年6月12日  東京スカイツリー

 東京スカイツリーが道の真正面に見える観光スポット・合羽橋本通りの商店街の一角で、「川柳で詠む東京スカイツリー」の展示が行われ、多くの方が足を留めていた。

 

 今年から「かっぱの里」としてオープンしたこの地で、7月には恒例の「下町七夕まつり」が行われ賑わう。東京スカイツリーとともに成長を目指すこの地域で、さらに川柳も加わって町興しを進めようと、台東川柳人連盟の閣員も東京スカイツリーの川柳作句に余念が無い。
 七夕まつりでも、東京スカイツリーを川柳で発表するという企画に協力するため、たびたび押上には足を運んで写真を撮ってきたが、三柳の外出の機会にということで、今日は、取材に娘も含めて同行した。
 展望台の膨らみが見え始めた塔は、無機質名造形からなんとなくニンゲン味を感じる形になってきた。真下からは、改めてニンゲンのなす力の大きさを感じた。

 東京スカイツリーを間近に見たあとは、兄貴分の東京タワーへついでの取材。日曜日ともあって、こちらの人出も半端ではなかった。ここからスカイツリーを見ると、近隣の高層ビルの大きさに比べて小さくではあるが、先ほど見上げたツリーが、マッチ棒を立てたように確認された。
 まだ、半分であるから、もっと見栄は良くなろうが、ニンゲンの力は、自然に対しては「チイサイ」とも感じた。
 写真は、あっという間に数百枚を撮り、初めて8GBの撮影可能枚数を超えてしまった。
 今日の取材の写真と、台東の方々の川柳を組合わせてフォト川柳に仕立てるが、川柳という興味を越えても、この変化の激しい塔の姿は、私たちの心を捉えて離さないだろう。

 

2010年6月5日  50歳になりました

 50歳になりました。
 昭和35年、生を受けて以来半世紀。川柳界のお爺ちゃま方に可愛がられている時分は、年をとることなど嬉しくもありませんでしたが、川柳家としての私の10代、20代を知る先輩は、ほとんどいなくなってしまいました。
 その後現れた、年だけ先輩で川柳経験は私より浅い方々には、若造の私が、ずいぶんと生意気に見えたことでしょう。確かに、川柳界の平均年齢からすれば、何時まで経っても若いままなので、30年経ってもまだ若手です。
 それでも、50という大台に本日到着。
 自分でも、ちょっと違った自分が鏡の中に居るのに逢えました。

 といっても、まだまだ若造には変わりありません。
 川柳界は、「限界」に近づいていくように思いますが、川柳という世界は、けっして「限界文芸」にはならず、必ず新しい道を切り開くでしょう。
 250年間に幾つもの危機をそのたびに越えた川柳の底力を信じます。
 50という節目に思うことは、その川柳という世界のため残りの人生と時間を注ぎ込んでいきたいということです。


本日は、鳥越祭。
内田博柳さんに誘われて、宵祭の雰囲気を満喫してきました。
娘も江戸っ子の六代目。
「お祭り」といったら、ニもなく三もなく着いて来ました。
三柳もまた、祭り好きです。

 

2010年5月29日  川柳公論35周年各賞表彰句会

 川柳公論が35周年を迎えた。
 公論の出発とと同じ時に川柳に踏み出した私も、川柳活動35年となった。
 といっても、35年間に私も歳を取ったが、三柳も歳を取り、柳界も歳を取って高齢化してしまった。
 <限界文芸>などと思いたくないが、高齢化の波は確実に川柳の土壌を蝕んでいる。
 今日は、私が四半世紀に渡り指導を受け、影響を受けてきた<3柳>の各氏が一堂に顔を揃え、私にとっても忘れられない1日となった。
 <三柳>の誤植じゃないかって…?
 いえ、脇屋川、大野風、尾藤三の<3柳>は、私にとって特別な川柳人で、同じ時間、同じ場所で同時に過ごせたこと自体が重要だった。
 角選者への投句、入選句披講も面白かったが、何よりも良かったのは、映画「鶴彬―こころの軌跡―」を観た後のパネルディスカッションで、それぞれのお話が伺えたことだ。
 鶴彬の映画を通して教えられたことから討論がはじまり、映画の構成や句の選択などに言及されたが、「文化としての川柳」ということについても話が広がり、それぞれのスタンスから川柳の将来について語られたのは価値があった。
 詳細は、「川柳公論」194号を参照されたい。
 表彰式は、極北賞の千葉県・佐久間京子氏、新潟県の川村雄一氏の表彰と、句集を記念出版した小河柳女氏への花束贈呈が行われ、華やかなセレモニーは滞りなく進んだ。
 句会は、「さくらぎ」メンバーや文京川柳会からの参加者も、大ベテランに混じって呼名があがり、3年の成果をそれぞれ示した。
 句会後は、会場を移しての懇親会。ここでも各所でなごやかな中、柳論が聞こえ、川柳の熱は、まだまだ熱いものがあると感じた。

 

 


挨拶に立つ三柳と私の特別な<3柳>先生。下は、会場風景。


第35回<極北賞>の佐久間京子氏


さくらぎメンバー、最後まで残って記念写真。

 

2010年5月22日  大江戸せん柳展

 台東川柳人連盟・川柳さくらぎ共催の「大江戸せん柳展」が、地下鉄大江戸線・上野御徒町駅コンコースではじまった。
 午前10時からの展示作業をはじめると、まだ荷を解いただけなのに、多くの通行者が足を止めて見ている。
 三社祭を中心とした「祭川柳」と、「川柳で詠むスカイツリー」の手間は二本立て。
 いずれも句と写真を組合わせたフォト川柳の体裁をとっており、句だけ読んだよりもずっとイイ句に見えるのは不思議。

 中には、「毎年楽しみにしています」というご夫婦が近寄って話しかけられ、これは嬉しい応援となる。
 「写真がイイねえ…」などと言われるとコソバユクなるが、押上に教室があり、行くたびにカメラに収めてきた東京スカイツリーの姿が、通りがかった人々の心を惹いている。

 

2010年5月11日  東京スカイツリー

 三社祭の「濡れ神輿」は、季節感としてよく知られますが、祭を前にした今日も降りしきる雨の曇天でした。押し上げ教室の途上、伸び行くスカイツリーも低い雲に頭がつかえそうでしたが、着実に成長を続けています。
 どんな苦難や天候にも屈しない東京の象徴として、天に向う姿を頼もしく感じます。

 

 

2010年5月10日  三社祭川柳2010 入選発表

 浅草神社主催<三社祭川柳>の入選発表があり、境内およびネット上で公開されました。境内では、さっそく足を止める参拝者が見られ、川柳への興味の高さが感じられます。
 今年は4115句の応募。特に、東京スカイツリーを読み込んだ句が目立ち、即座の反応として《東京新聞》が取上げていました。

 川柳は、世相、時代を反映する鑑として人間社会を描いてきましたが、時代時代に旬なテーマをしっかりと捉える<目>があればこそで、十年一日の内容から出ようとしない作品や表面上の可笑しさだけを取上げる誤解多きメディア川柳も盛んです。
 選者は、常に時代意識をもって、アンテナを磨かねばならないということを共通認識にしたいものです。

 

2010年5月9日  上州時事川柳クラブ

 三柳の講演に付き合い、高崎へ上州時事川柳クラブの16年目の定期総会へ。
 時事を専門とする集団が、時事の専門家である《読売新聞》の海外特派員経験を持つ講師と、川柳の専門家である講師の二人を招き、時事のアンテナを磨く講演二本を拝聴。さらに三柳選の「マニフェスト」1題で競吟。
 何と言っても専門家の話は面白く、中国特派員を務めた石井利尚氏の中国国内における取材の裏話は、独特の国家体制の中国ならさもあらんと思える生々しい内容。
 自由に表現できる日本という国の良さを改めて感じるが、その分呑気さをもった政権担当者により国家利益が損なわれている現状をみると、どっちが正しいのか一概には言い切れない思いがした。
   絵に描いた餅が首相の胃に溜まる

 

2010年5月1日  かっぱの里オープニングセレモニー

 川柳250年事業以来、お世話になっている〈かっぱ橋本通り公西会〉の主催で、かっぱの里完成イベントが、同商店街で行われました。
 この通りは、真正面にスカイツリーが聳えるという運の良い観光スポットに。電線を地下に埋設して、スカイツリーのビュースポットへの生まれ変わり事業が、今行われています。
 浅草たいこばん一座の太鼓パフォーマンスにはじまり、台東区長はじめ、地域の振興にかかわる方々の挨拶を経て、いよいよカウントダウンのテープカット。
 といっても、お偉いさんが鋏を入れるお馴染の行事ではなく、なんと500人以上の参加者が手に手に鋏を持っての長ー〜い長ーぁいテープカット。歩行者天国に伸びたテープをもつと、カッパのぬいぐるみやキーホルダーが付いていて、そのひとつひとつにプレゼントの引換券。劇団「円」の団員65名もまじっての行事は実に賑やか。
 台東川柳人連盟の川柳家、「さくらぎ」の一行、文京川柳会から、また、清瀬川柳会からも駆けつけ、川柳がお世話になった商店街の新しい門出をともに祝った。
 東京スカイツリーは、近くで見るも良しだし、このように風景の中で見てもよし。
 新しい東京のランドマークが、大空に伸び行く姿は、ふたたびこの都会が自信を持つに足るエネルギーを感じる。



        柳人のゆるキャラも出るかっぱ村
 

2010年5月1日 「東京人」6月号にエッセイ

 川柳250年の川柳展会場で取材を受けていた「東京人」さんから、エッセイの依頼を受け、川柳について書かせていただきました。私の文章など、取上げてお勧めいたしませんが、手元に届いた今号の特集が実に面白いので紹介します。
 今年のNHK大河ドラマの坂本龍馬を、写真などビジュアル史料もふんだんに、新しい切り口から掘り起こす。今まで伝えられた龍馬のイメージをくつがえしたり、子孫が語る幕末などは、つい読みふけって急ぎの仕事が遅れてしまうほど。
 「東京人」6月号は、みどころたっぷりで、是非、手にとってみてください。

 

 

2010年4月30日  新しい自転車 新しい自動車

 先日、約半年待った新型プリウスの納車があり、久しぶりにドライバー魂に火がつきました。プリウスが販売されて以来、ずっと気になっていた車。発売4年目の後期型に乗ったときには、それまでのセフィーロに比べて2倍以上の燃費に、フトコロの痛みも少なくなりました。深いグリーンの色といい大きさといいお気に入りだった5ナンバープリウスとは、事故でお別れ。急遽、3ナンバーになった新型プリウスに乗り換えました。大きくなっても燃費の変わらない性能に満足はしていたものの、私の面倒くさがりから、汚れの目立たないシルバーにしていたため、スタイリストの三柳センセイには不評でした。「周りを見回せばシルバーばかりじゃないか…。個性がなさすぎる」
 そんな事を言われても私の経済力では、とても乗り換えはできませんでしたが、新しいプリウスの発売を見て、三柳センセイがスポンサーとなるとのこと。補助金もあり、下取りも多少は色がつくようなので、進められるまま「赤い」プリウスに。ナンバーも、こだわりの「575」。
 この目立つクルマでは、悪いこともできませんが、仕事に取材に買物に、さらには三柳センセイの送り迎えにも活躍。今度は、3台の車を練習台に乗り潰し、新米運転手だった女房も多少は運転が上手くなり、傷もつけずに2カ月が過ぎました。
 こんどは、「パパばっかりズルイ」という娘。よく見れば、友達の自転車の半分くらいのサイズに乗っていた娘のガマンも可愛そうに思えた。本日、進級の祝いもこめて自転車も新調。とりあえず、新しい気分を愉しんでいます。  

 

 

 

2010年4月23日  さくらぎ押上川柳教室

 今度は、東京スカイツリーの麓の押上教室に集合。伸びゆく塔を見上げながら、川柳作句三昧。本日のテーマは、「いい句、うまい句、めだつ句」。
 我々が川柳活動の中で、どんな川柳を目指すかについての学習は、今後の作句姿勢にも有意義であったと思うが、作句にもTPOがあり、それらの句のありかたを臨機応変に切り替えることも大切であることを知った。
 同じイメージ吟でも、さすがに押上教室は「うまい句」が多く生み出されたが、面白いという点では、まだ日の浅い文京川柳会の方に軍配があったかもしれない。
 創作の批評では、
  ハーモニカ 四月の穴に口あわせ   ま喜
 が話題になった。本人は「四角の穴」と書いたつもりが、ファクシミリのいたずらで「四月の穴」として披講されたのだが、ハーモニカの四角い穴という既成概念を超えて、四月という季節的イメージの中で「社会の穴」「人生の穴」「心理の穴」といった意味が句に感じられ、この誤解が句を良くしてしまった。
 コトバのミスマッチは、コトバとコトバのあわいに、あたらしい概念を生み出す力があるが、まさにこの文字の誤読が、句に詩的内容を持たせたのは興味深い。
 無意識のミスマッチも有効だが、思考回路として意識的ミスマッチも作句の上では新しい表現世界を生み出すことができる。ただし、そこには、ミスマッチとはいえ、深い部分で真理でなければ、コトバ遊びになってしまう。
 この面白さに気づいた講義だったと思う。
 いかに既成概念を離れながら共感の世界を構築していくか…。
 僅か十七音の文芸に求める私どもの終着点は遠いということを感じさせられた。

 東京スカイツリーは、本日349mとのこと。
 教室を終って見上げると、雨模様のスカイツリーの上部は、雲の中にすっぽりと覆われていた。

 

 




 

2010年4月21日  文京川柳会

 文京川柳会4月句会の前に、文京区役所・教育委員会を訪問。八世川柳墓所のある林泉寺の史跡価値をめぐって説明にあがった。
 今年は、八世川柳生誕190年の節目ということだが、来年は、八世川柳没後120年の節目となる。これにあたり、文京区に因む先達について、文京川柳会の有志が自主的に八世川柳こと児玉環を偲び、供養をしようと働きかけたものだが、苦の教育委員会の興味をひいての展開となった。
 狂句時代の川柳であり、すでに柳界からはほとんど顧みられていないが、歴史の中の一断面を掘り起こすのは、川柳にとっても地域にとっても文化的に有意義である。

 打ち合わせの後、区役所のあるシビックセンター20階から、東京スカイツリーを見せてもらった。東京のどの構造物よりも高く見える建設中のツリーは、まだ半分程度の大きさ。さらに、空に向って伸びて行くと思うと、ワクワクする心が湧いてくる。

 句会では、イメージ吟として「===」という課題が出されたが、ふだんの言葉による課題より、作者のイメージが自由に広がり、面白い句が多く生れた。課題の大切さを認識したが、詳細は後日の発表紙をご参照ください。

 





 

2010年4月16日  読売日本テレビ文化センター川崎に川柳教室

 知苦理女女史の健康状態を受けて、川崎教室を引き継ぐことになった。
 川柳250年の歴史と文化を活かしながら、「脳トレ」としての楽しみを伝える場にして、川柳の効用をフルに発揮していきたい。
 次回は5月8日。
 まだ、何も決まっていないフレキシブルな教室としていけるだけに、参加者の希望を最優先のカリキュラムを実践していきたい。
 入門から応用まで、どのような対応でもOK。
 川崎センターにお問合せください。

 

2010年4月15日  今川乱魚日川協会長が亡くなりました

 (社)全日本川柳協会会長の今川乱魚氏が15日、亡くなりました。

 今川乱魚(いまがわ・らんぎょ)子は、昭和10年(1935)2月22日、東京生まれ。
 本名は今川 充(みつる)。
 早稲田大学法学部卒業後、職場俳句会から昭和37年頃、《日経新聞》川柳欄により「番傘」の岸本水府と出会い川柳の道へ。番傘をはじめ関西の句会で活躍。
 昭和44年、東京への異動を機に、昭和50年からみなと番傘句会など在京の句会に出席する。昭和52年よりみなと番傘川柳会(平成7年から10年まで会長)および番傘本社同人(のち幹事)となり、54年には機関誌「港」の編集長。昭和62年10月、東葛川柳会を興し代表(のち最高顧問)となる。
 平成元年、日本川柳ペンクラブの発足に参画。平成6年には社団法人全日本川柳協会理事、15年より会長となる。また、10年9月には、999番傘川柳勉強会を創設。
 行革川柳の主査などを務めるかたわら、日本文芸家協会会員、日本川柳ペンクラブ常任理事。川柳人協会顧問などを務め、川柳の地位向上に尽くす。
 科学技術広報誌や鉄道身障者協会誌の川柳欄の連載、北国新聞、リハビリテーシヨン川柳欄、川柳マガジン「笑いのある川柳」ほか選者多数。
 平成4年5月、第5回ヌーベル文化賞を受賞後、第3回日本現代詩歌文学館館長賞(H17)、第9回川柳・大雄賞、第40回川柳文化賞受賞。
 著書・監修に『乱魚川柳句文集』(平7)、『ユーモア川柳乱魚句集』、『ユーモア川柳乱魚選集』などがある。編著に『川柳贈る言葉』(平9)、『癌と闘う―ユーモア川柳乱魚句集』(平17)、『川柳ほほ笑み返し』、『科学大好き−ユーモア川柳乱魚選集』科学編・技術編・生活編、『三分間で詠んだ−ユーモア川柳乱魚選集』、『銭の音−ユーモア川柳乱魚句集』、『李珠玉川柳句集 酔牛』、『妻よ−ユーモア川柳乱魚句文集』、『岸本水府の川柳と詩想』、『癌を睨んで―ユーモア川柳乱魚ブログ』ほか多数。

 1月の広島川柳会会長・定本広文氏に続き、川柳界にとって大切な人材を喪った悲しみは大きい。
 深くご冥福を祈ると共に、川柳家のひとりとして遺志を継いで、川柳発展に努力したいと、あらためて意を固くした。

 

2010年4月15日  台東川柳人連盟・春の吟行 鬼怒川温泉句会

 「川柳横丁」命名に、いよいよ元気な台東川柳人連盟の面々。
 早朝の雨も、列車が鬼怒川につく頃には薄日も差し、いかに日頃の行いが良いかを裏付ける。
 平均年齢75という中で、ひとり平均値を下げる私だが、高度成長以前の苦労を知るセンパイ方のゲンキさには、なかなかかなわない。
 嘱目吟を作りながらの移動では、満開のサクラに出遭う。宿に着いてからは、まず温泉を満喫。浴衣に着替えても、作句意欲は変わらず、投句を終えると、さっそく投扇興に興じ、句会の披講では一喜一憂の感性。食事の後はカラオケに温泉。露天風呂の風は冷たいが、芯から温まるラドンの泉質はホンモノ。
 浅草で小柳のウナギに舌鼓しながらも、さあ、社会に川柳を広げるためには・・・と、次の戦略を練りながらの乾杯。
 川柳発祥の地の川柳家は、川柳が呼吸のようになっているのが嬉しい。

 

2010年4月7日  川柳カフェ

 川柳マガジンさんが「おばあちゃんの原宿」こと巣鴨の地蔵通り商店街に開いた「川柳カフェ」。出版の打ち合せとはいえ、珍しいもの見たさにセンマガの竹田女史に伴われて行って来ました。
 壁に並んだ川柳書は、フツウの喫茶とは雰囲気が異なり、ここならいい句がどんどん生れそうな気分にしてくれます。
 さっそく、
  珈琲の香に十七音をとくしじま
 の句想を得、色紙にしました。添えた絵は、ブラジリアンのストローハット。
 ロールケーキに舌鼓しながら、川柳を語っていると、あっという間に時間が経過。
 またの機会を楽しみに、雨の巣鴨を後にしました。

 

 

2010年4月6日  向島川柳探索

 川柳発祥の地で川柳活動をする博柳、末成両氏と、「さくらぎ」のセンパイ一拝さんを伴って向島周辺を散策。まさに東京のサクラも最高潮の一日。教室で川柳するのは「よそう」と、江戸っ子4人が花に誘われての外出。
 向島の木母寺で四世川柳により建立された「東都俳風狂句元祖 川柳翁之碑」の見学を皮切りに、謡曲でも名高い「梅若塚」、南へ下って「隅田川神社」、向島・長命寺周辺の花を目で愉しみながら、村田周魚句碑のある「牛嶋神社」へ。また、そのすぐ脇の「墨田公園」のサクラを愛で、伸び行くスカイツリーに感嘆しながら、さいごは「五世川柳句碑」、「六世川柳句碑」、「九世川柳句碑」および川柳中興の祖の「阪井久良伎句碑」ほか、江戸からの石碑が林立する三囲神社へ。
 その間、それぞれの場所では、一泉が用意したテキストによって、関連の古川柳講義と解説。それぞれ、知っていることを語り合ううちに、話はどんどん川柳の奥へ奥へ。
 川柳を通じて、景色を楽しみ時間を楽しめるのは、気心が知れただけでなく、川柳という糊のおかげ。改めて、初代川柳を初め、川柳の先達に一同「礼!」。

 ってなことで、満開のサクラを満喫しながら、穏やかな一日を川柳で過ごし、土手のサクラの下に腰掛けて冷えたビールで乾杯!!
 なんとも、気分のいい一日でした…

 

 

2010年4月3日  川柳きやり吟社創立90周年記念大会

 会場の市谷は、満開の桜に彩られ、「東のきやり」といわれた老舗吟社の90周年大会が開催されました。
 4代目主幹の竹本瓢太郎氏は、初代・村田周魚による45年間とその後4代に渡って継承してきた「川柳きやり吟社」に思いを馳せ、さらに、川柳の未来を語りました。
 三笠・三柳と2代にわたり、川柳きやり吟社に縁の深かったこともあり、私も記念大会の末席に寄せていただき、この歴史的晴れの大会を愉しみました。
 
 今日、川柳界の外側の川柳が社会性を増し、私どもが育った吟社川柳界は、高齢化の波によって存続の危機を感じるようになりましたが、こうして節目の集まりをみると、まだまだ力は維持していると思います。この力を、さらに川柳発展のためにも尽くしたいと思いました。
 こうした大寄せでは、地方からの参加者も多く、また、新しい出逢いによって、川柳のネットワークが広がります。
 何よりも楽しい出逢いで、川柳という共通項が、世代、地域、性別などを超えて、ひとつの輪にしてくれることの素晴らしさを思います。

 表彰、句会、講演、披講に続いての懇親会では、川柳を忘れて交流を深め合いましたが、やはり、酒を交わしながらも、川柳の現状と将来についての思いもポロリ、ポロリと飛び出し、心底、川柳が好きな人たちなんだと改めて知らされます。
 残念なのは、50になる私が、どうも最年少ののようで、―最近、ややふけた自分を感じています―若い参加者が目につかなかったことでしょう。
 その代わり、最年少の気安さもあって、先輩方に折り帖の染筆をお願いして歩きました。10人以上の先輩の染筆をいただきましたが、活字で見る川柳作品と異なり、これはまた文化としての川柳を感じます。
            

 これらの染筆は、私の大切な「川柳お宝」として、後世に伝えていこうと思っています。

 
     竹本瓢太郎主幹

 

2010年3月29日  女子美の花見

 大学の構内もサクラの名所にヒケをとらぬ桜の数を誇りますが、残念ながらまだ1本が8分に咲いている以外、ほとんどの木々の蕾はかたいまま。
 恒例の「花見」とはあいなりましたが、コートを羽織ったままの花莚。

 多少胃袋に美味しいものをいれると、誰とはなく立ち上がってフリスビーに興じ、ゆっくりと花を愛でるという気分にはなれませんでした。

 用意した色紙に川柳を作りあう予定でしたが、コトバも悴んでいて、とても十七音にはなりませんでした。

 

 

2010年3月27日  川柳公論・飛鳥山吟行会

 川柳公論恒例の春の吟行会が東京都北区の桜の名所・飛鳥山で行われました。
 残念ながら洟は二分から三分。気の早い桜だけが八分という花模様でしたが、散策には好都合の日和で、それぞれが春の一日を満喫しました。
 「さくらぎ」関係から9名、台東川柳からも5名の参加があり、ベテラン柳人にまじって、渾身の作句。北とぴあで行われた川柳の披講では、それぞれが呼名の栄誉にあずかり、けっして新人でも作句力が追いつかないなどということはなく、五分に渡り合っていましたが、さすがに高点句になると「ボクらよりウマイ…」などという感嘆の声。良い句を耳にすることで、さらにセンスは磨かれたことでしょう。
  扇屋で桜は三分の足しにする  一泉
 ま喜さんが買ってきてくれた王子名物、扇屋の玉子焼きをつまみながら、春の一日を楽しみました。

      
       先輩柳人にまじって、「さくらぎ」の仲間も存在感をみせました。

 

 

 

2010年3月25日  三社祭川柳の投句箱

 浅草の三社様拝殿前に「三社祭川柳」の投句箱が設置されました。
 江戸を代表するお祭・「三社祭」の浅草神社は、江戸以来の壮麗な建物が残り、独特の江戸情緒を残していますが、参拝の人々が、賽銭箱脇に置かれた投句箱を興味深そうに覗き、また、中には、一句ひねっていこうと、立ちどまる人も。
 参拝の外国人の中には、何を思ったか、おぼつかない平仮名で、参拝祈願のお願い事を書き並べる方もあり、それなりに投句箱は興味を惹いているようです。

 三社祭川柳の応募は、4月30日締め切り。
 応募、問合せは、浅草神社のホームページからどうぞ・・・!

 

 

2010年3月18日  川柳横丁に「川柳掲示板」

 浅草のオジサンこと博柳さんから「ニュース」がケイタイに届きました。
 かねて、町会や区にお願いしていた川柳横丁の龍宝寺門前に「掲示板」をということが、実現しました。
 川柳250年行事以来、地元の川柳に対する意識が高まり、「川柳横丁」の命名にもつながったのですが、その横丁で、常に川柳を発信できる掲示板の設置が行われ、いよいよ本格的に川柳の町へとなってまいりました。
 本年の8月25日・「川柳発祥の日」には、近くの寿区民会館において、祝賀行事が行われ、本当の意味で、発祥に地での川柳発祥の日の祝いが、地域の方々とともに行われる運びとなりました。
 川柳と地域の結びつきが強くなってまいりましたこと、心より嬉しく思います。

 

 

2010年3月12日  知苦理女さん

 川崎で知苦理女さんに初めてお目にかかりました。
 「知苦理女」の名は、三柳選の《東タイ川柳》や楠本謙吉選時代からの《よみうり時事川柳》でも目にし、特に、
   核の傘日傘の下の原爆忌  知苦理女
 の作品が、私の記憶に鮮明に残りました。時は東西冷戦下、国内では原爆反対の団体が主導権争いに躍起となっている頃の作品で、まだまだ呑気な日本の世相を諷刺したものです。核の傘に核の密約が未だ明かされてなくても、誰もが核兵器持込に疑念を抱いていた当時、アメリカの力なくして、日本の平和はあり得ませんでした。それを知りつつ、容認してきたのも当時の世相でしょう。
 「核の傘」という姿の見えない非日常の力と、「日傘」という可愛らしく日常的な風景のコントラストがこの句の主張、風刺を鮮明にしています。ここでは、「傘」という縁語を用いた「コトバ遊び」の手法を用いていますが、「狂句」的な「非文芸の語戯」とは異なり、コトバ遊びという判りやすい表現でしっかりと伝えたい内容を包含しています。
 もうひとつ、知苦理女さんの句で、私の脳裏を離れない一句があります。
  童貞を今宵失う二児の父   酒井喜美子
 私が、「川柳公論」の編集を手伝い始めた頃(まだ在学中でした…)、公論に発表されたもので、女流作品のスゴサを身をもって感じた一句でした。「酒井喜美子」は知苦理女さんの本名で、「川柳公論」では、本名で活躍されたようです。このふたつの句は、長い間、同一作者とは知りませんでしたが、川柳家を志していた頃の私にとって、忘れられない作品の一つになっていました。
 聞けば、体調を悪くされ、川柳から離れるととのこと。
 作家としても、カルチャー講師としての実績としても惜しいことで、僅かな時間でしたが、慰留に努めました。カルチャー講師も、生徒を楽しませるだけなら、時間ふさぎの話題で済むのですが、川柳を文芸・文化として伝えようとする時、その準備や講座の運営には、かなりの負担が掛かることをよく知っています。知苦理女さんの意向も、ここのあたりにあるようで、自分で納得のいく十分な講座が続けられないと感じた時、身を引く思いにかられたのでしょう。
 酒井燕柳という川柳家がいました。知苦理女さんの厳父であったと伺い、また驚きましたが、私同様、川柳の「親子作家」でした。知苦理女さんは、父君がなくなられてから、遺された作品を見て川柳にはいったといいます。私の場合は、やらされて、反発しながら入ったという事情の違いはあれ、川柳を「血」として受け継ぎ、何か特別な愛情をも感じる部分があります。
 知苦理女さんは、「これで川柳とはお別れなの…」と仰っていましたが、「血」は、決してそれを許さないでしょう。何時の日か、川柳を作り続けている自分に出逢い、また、私どもの前にも「知苦理女」としてその姿を見せてくれることを信じています。
  ぬくぬくとわが血の中のドラクロワ   一泉 

 

2010年3月6日  「ホテル川柳 2010」コンテスト

 東急ホテル主催、「ホテル川柳 2010」コンテストが作品募集中です。今月の16日が締め切りですが、一句、わずか十七音で「20万円」獲得のチャンスです。
 公募川柳を下に見るきらいはありますが、良い作品が生れるチャンスは句会と同程度。企業公募とはいえ、選者は、新しい発想の新鮮な作品を常に探しています。公募川柳から、川柳の新しい表現領域が生れれば、これも新しい川柳の展開と期待しています。
 奮ってご応募ください。
 川柳という文芸の地位向上のためにも、良い受賞作品を探し続けます。
 応募は、以下のURLからどうぞ。お待ちいたしております。
    
http://www.tokyuhotels.co.jp/ja/topics/150/index.html

 

 

2010年3月5日  男と女のフォト川柳 日本テレビ<スッキリ!>で紹介

 「明後日川柳の番組を放送予定ですが、明日取材させていただけますか…」とは、放送局のいつものパターン。
 〈スッキリ!〉では、昨年もお世話になっており、もちろん何時でもOKです。
 第3回を迎えた<女のフォト川柳コンテスト>(バイエル薬品主催)は、カップルのコミュニケーションを応援するキャンペーンの一環として、「愛と健康」をテーマに実施されましたが、PCサイト、携帯サイトを通じ、応募総数は、8146章。これから選者・尾藤一泉が一次選考の上、選考委員会により、バイエル賞ほか優秀8作品、佳作20点を選びました。
   くちびるが背中に欲しいなと思う  浜ぶどう
 は、最近の公募川柳の中でも川柳としてよくできた作品。判りやすく、課題の「フォト」を十二分にこなしている上、表現としても新鮮味に溢れています。「くちびる」を上五にもってきた構成も、手馴れた技量を感じさせます。
 フォト川柳は、川柳作品のみの完成度だけではなく、課題のフォトイメージまたはオリジナルフォトとの響きあいを含めて総合的に視覚と言語の優れた表現力が求められますが、今年は、いい作品が多く集まりました。
 社会の中でもブームとしてメディアで川柳が多く取上げられ、バイエル薬品の〈男と女のフォト川柳〉も定着していることを嬉しく思いました。企業公募川柳でも、面白くしかも文芸性ある作品を目指して、常に心血を注いでいますが、回を重ねる毎に句が深まるのは、応募者の川柳に対するレベルアップということもあるでしょう。

 さらに、単に表面的な可笑しさを求めたバラエティーの川柳と異なり、日本テレビ〈スッキリ!〉の紹介は、〈男と女〉の良い作品を使ってのドラマ<愛の記録>は、けっこう楽しく、川柳の文化的気分をも伝えてくれました。句を紹介しておきましょう。

   
   
   
    
    
   
   
   
    

 

2010年2月20日  母校でテンペラの特別授業

 母校の滝野川第五小学校で、絵の先生として特別授業。ふだんは、大学のもっと大きなお姉さんとお絵かきの授業をしていますが、この日ばかりは、小学校3・4年生の可愛い子ちゃんたち。
 私の在学中は、各学年6クラス、全校生徒千人を超える小学校でしたが、今では各学年1クラス程度。ゆったりとした教育には向いているかもしれない。

 テンペラは、色のついた粉である顔料を卵のメディウム(糊)と混ぜて作る絵具。日常の食品である生卵やサラダ油、お酢などを材料に絵具を作ることに、参加者は目を真ん丸くして興味を持ってくれました。
 中には、予習をしっかりしていて、テンペラを使った画家にレオナルド・ダ・ビンチやボッティチェリなどの名前を挙げた子も。
 「おじさんは、ダ・ビンチせんせいにテンペラを習ったんだよ」というと、中には本気にしてしまった生徒も。うちの娘も、マジに受取った様子。
 楽しい時間は、あっという間に過ぎました。


選択で出席した娘とともに…。


自分で作るザラザラした感触の絵具は、とても発色がいい…
 

2010年2月12日  テリーさん・たい平さんの「のってけラジオ」に生出演

 前日に電話を頂き、急な出演が決定。何も予定せぬまま、テリーさんの絵を色紙に描いて持参。進行担当の女性と自己紹介および川柳に就いてのミニ知識ほか僅かな遣り取りのみでスタジオに通され、いきなりのスタート。
 臨機応変、出たとこ勝負の人生を背負ってきましたが、さすがに生放送は、自分でも硬さが感じられるほど。すっかり、打ち合わせの進行で筋書きを作ってくれていましたが、出演者との遣り取りに至って、「臨機応変・出たとこ勝負」の素性が現れてしまい、「生」のしゃべりをしてしまいました。
 スタジオに入ってから、みなさんが「バレンタインデー」をテーマに句を作りたい…ということで、急に私も一句即席。本来、作句の緻密な私にとって、即吟は読み捨ての句会ぐらい。電波に乗る作品には、ちょっと弱かったかもしれませんが、渡された色紙にサラサラと…。
 単に、表面的な可笑しさだけでない川柳の本質的面白さに触れたく、少し理屈っぽい事も言ってしまいましたが、テリーさんはじめスタジオの皆さんは、けっこう理解してくれた様子。
   ミエはって去年のチョコ食べてます     テリー
   今年からあの球団はもらえない       たい平
   スイーツの街なみおどりプチ旅行      ブリトニー
   今年もだ母からもらうチョコ1つ        正木あずみ
   草食の男にとけぬチョコをやる              一泉
 今日のテーマは「正しい日本語が使える人間になりたい!」ということについては、「川柳もコトバとリズムを大切に」というたい平さんの纏めのようになったかどうかは判りませんが、単なる表面的笑いではなく、また、コトバを縮めるのではなく、川柳では「省略とリズム」によって、表現を膨らまし伝わりやすくしよう」という短いメッセージは、視聴してくれた方々にも聞き取れたようです。
   さいごに、乗せられて・・・一句。
   きき上手 ついのってけに乗せられる      一泉


 

 

2010年1月7日  森井荷十さんの作品を拝見

 明治新川柳では、革新的な作風と「矢車」などの柳誌における主張で、新傾向という新しい運動にいた先達・森井荷十師のお孫さんが、我が家を訪ねて来てくださった。
 川柳書籍など荷十師の収集した史料の多くは、3月10日の空襲で焼けてしまったということでしたが、一部直筆史料や画軸などのコレクションは戦災を免れ、家族の手でしっかりと護られてきました。
 その中から、荷十直筆の短冊と漫画家等が描いた荷十師の肖像色紙をお持ちいただき、手にとって拝見する機会を頂きました。
 森井荷十は、
   また今朝も新聞が来て居る哀し
 などの作品でも判るように、それまで客観的な視野しか持たなかった江戸以来の川柳に〈主観〉を取り入れた最初の時期の川柳家で、私どもの現代川柳に展開する先達として、大きな存在の川柳家です。
 しかし、比較的早く柳界から一歩引いてしまい、戦中戦後は、柳友などの気心の知れた句会に大先輩として顔を見せてくれていた以外には、明治期から大正に掛けての目覚しい活動は無かったようです。
 しかし、その作品に直接触れると、意思の伝わってきそうな墨跡や、多くの文化人との交流の跡、残された作品の数々により、川柳家としての確かな影を感じさせられます。
 嬉しかったのは、そのお孫さんが、川柳家としての祖父に興味を抱き、『川柳総合大事典』に掲載された一枚の森井荷十の写真を手掛かりに、私のところを訪ね当ててくれたことです。
 我が家には、私の祖父・三笠が、大センパイの荷十師から頂いた短冊が一枚残されています。これは、川柳250年の川柳展などをはじめ、各地で新傾向川柳の史料として展示され、三笠を通じて私に荷十師が僅かに伝わっていたのですが、森井氏が訪ねてきてくれたことで、その繋がりがうんと深く、また広くなりました。
 川柳は、句会で作りっぱなしの遊びとしてだけではなく、文化として継承されるものと改めて感じました。
 この出逢いを大切にしていきたいと思います。


 孫の森井氏とたった一枚伝わったという森井荷十の写真


 読み下しと出典を加えて史料として整備した森井荷十師の遺品

 

2010年1月5日  押上研究会

 こちらも松の内のスタート。
 まだ、アタマの方が日常に戻っていないので、ちょっとポヤポヤ。
 とりあえず、集まった仲間と新年をしみじみと祝う。
 今年は、前田雀郎五〇年忌の節目でもあり、私どもの川柳の先達にあたる大家を見直す講話と、明治新川柳のさいしょの改革運動たる新傾向について。
 私のほうは進歩が遅いけど、東京スカイツリーの方はみるみる伸びて、254メートルまできたそうです。カメラも、ポケットタイプのものでは一画面に入りきらず、はじめて継ぎ合わせざるをえなくなりました。
 写真を撮っている人も、最近はめっきりと増えて、カメラで、ケイタイで、またゲーム機で撮っている人々の間から私もカシャリ。

 東京の新しいシンボル。
 私も進歩をせまられているような気がした。 

 

ブログ インデックス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無料・カウンター
Today:

Yesterday:


出会い出会い系サイト出会い系サイト無料 出会いライブチャット 無料